(2) 米のとれる土地をつくろう
⑨ 川より高い土地へ水を送る
宮川四郎兵衛は、今から320年くらい前に、納屋町(今の西港町のあたり)の庄屋をしていました。
小さいときから測量(土地の高さや広さをはかる)の技術にすぐれていました。
そこで、その技術をいかして、鵜川からあれ地である「熊谷原」に用水を引き、新しい田にする計画を立てました。
宮川新田のような高い台地に田をつくるためには、より高い上流から用水を引かなければなりません。そこで、宮川新田を流れる鵜川の4000m上流にせきをつくり、そのせきから用水路をほりわることにしました。
まず、測量から始めましたが、急で、でこぼこした山のしゃ面に、水が流れるように用水路の位置を決めることはたいへんな作業でした。夜、ちょうちんをつけて、遠くから高さ低さを見て、用水路をほる位置を決めました。
こうして決まった位置に用水路をほり始めました。しかし、山が急な上に、そのころは道具も「土ぐわ」「すき」「もっこ」などしかなく、時間もかかり、本当にむずかしい工事となりました。どうしてもほりわることができずに、トンネルをほった所もありました。また、せっかくほった用水路が、がけくずれのためにこわれてしまうこともありました。
用水路をほる仕事とともに、田をつくるために木を切ったり、土をならしたりする仕事もいっしょに行われました。大きな木を切り、根をほり起こす仕事も、土を運んだりならしたりする仕事も、一人ではとてもできないたいへんな作業でした。
つらくきびしい工事でしたが、大勢の人々の協力と努力のおかげで、工事を始めてから4年後の元禄16(1703)年にようやく「宮川新田」が開かれました。