(3) 学問を広める

③ 藍沢南城の教えと三余堂

三余堂で使われていた当時の教科書
三余堂で使われていた当時の教科書

南城は、「三余とは、一年のあまりの冬、一日の余りの夜、ときの余りの雨の日である。人間その気になればいつでも学問はできる。」という意味から、塾の名を三余堂としました。
塾を新築しんちくしたときには、「一つまみの土ももれば山になり、一てきの水も集まれば大海たいかいになる。人のこころざしも同じことで、ひたすら努力どりょくつづけることである。」というおいわいの文を書きました。
南城は、人が生きていくための守るべききまりや年上の者に心をつくしてつかえる大切さを教えました。
三余堂に入学したのは、柏崎や近くの村々の人ばかりではありません。遠くは新潟や上越じょうえつ、ときには県外からも入学する、新潟だけでなく全国にも知られた塾となりました。29才で塾を開いてから南城が69才でなくなるまでの間に、塾生となった人の合計は700人以上にのぼりました。また、南城がなくなった後も、三余堂は明治時代まで引きつがれました。


県内から三余堂に通った塾生の数
県内から三余堂に通った塾生の数

三余堂とならんでしょうされたじゅくに「長善館ちょうぜんかん」(今のつばめ粟生津あおうづ)があります。
明治時代に新潟県内で三余堂と長善館がすぐれた学校として表彰ひょうしょうされました。